こんにちは!本日の記事は、旦那さんが買ってくれたカルディのホットチョコレートをかき混ぜながら書くことを考えていました。ありがとう旦那さん!おかげでやる気アップして早く書けました。
さてさて、3月は自分のお仕事経験を生かしたサークルを発足して何回か活動をしていたのですが、企画する側にまわってみて気が付くことや悩むことがいくつか出てきている状況です。例えばその中のひとつに、参加者がどうやって自分で気づきを得るか、ということがありました。なんだか大げさに、そして偉そうに聞こえてしまったら全くそのようなつもりはなく、とても小さいことも含めています。
例えば絵を描くときに、資料を見ると人のプロポーションは大体何頭身か目安が載っていますが、それを実際に鉛筆を使って頭身を計ってみると、資料通りにはいかなかたりします。人によって頭身が違うという発見が、資料にある内容の規格外となってしまい戸惑うのか、目の前のものを更に観察してみようという前のめりな気持ちになるのか(と2方向を提示していますが、不安が大きくなることの方のが多いと思います)。
料理も同じことが起こるように思いまます。野菜の大きさに個体差があるため、一般的なジャガイモ、ニンジンのサイズはどのくらいを想定しているのか気になることがあります。たまに北海道の野菜がスーパーに並ぶのを見ると、いつものと大きさが違うんですよね。そうして自分の基準がぐらつくことがあります。
絵を描くことも料理をすることも、手を動かして実践していく中で、ちょっとずつ、まあこんなもんかな、という自分の中での検討をひとまず付けていくのですが、心のどこかでは”これはこうするのだ”ドーン!と基本がきっちり線引きして決まっていたら、曖昧さを持ち続けずに済んで楽だろうなあと、それにモヤモヤ期間から脱出できるなら早い方が良い。
そうなってくると、何かを初めて挑戦する場合は、はやくに線路が引かれた安全なレールの上を走ることを求めたくなるし、そうした気持ちは自然に起こるのではないかと思います。
となると、ある程度型にはまったこと(規格外の状態が出来たら少ないこと)を繰り返し練習することの意味というのが、ここで少しわかってきます。
その行為の中には実は、野菜を切る厚み、フライパンで焼く時間など、細部に心配りをしようと思えばできそうなポイントがあり、繰り返し反復している中で、ちょっとずつ目配りできる余裕が生まれて、そうした発見から新しい挑戦が生まれてくるような気がしています。
自分などは、今回のサークルで初心を思い出させてもらったのをきっかけに、例えば人の絵を描くときに、自分の体を触ってどんなものか確かめるようになりました。そうして触った感覚を生々しく意識すると、なんだか描くときのかたちの取り方がより注意深くなります。また、線一本も大事な一本と目標を決めて描いたり、上手くやろうとするよりも自分の楽しみ方と細部への目配りをなるべく意識するようにし始めました。
と、こんなことを最近になって考えるようになっていますが、本来は何度も繰り返すという行為がとても苦手でした。学生時代にファミレスでアルバイトをしていたときに、同じことの繰り返しが単調に感じて無関心に時間を過ごしていたことがありました…。あるとき、『美味しんぼ』の漫画で立ち食いそば屋さんのことが書かれていた回が目に入り、うどんを提供される側は同じ品質と味が当たり前でも、提供する側にとってはその当たり前を毎日続けているのってすごいことなのだなと思ったのがずっと忘れずにいたのですが、最近読んでいる『民藝の機微 美の生まれるところ』松井 健 著の本で、そのときの気持ちを思い出しました。
本の中では、民藝の職人と芸術家が突き詰めていく方向を対比して説明している箇所があるのですが、自分はその話を読んだときに、民藝として昔から今に至り作られ続けているものの中にある大事なものを、職人は手を使って繰り返し形にしていく中で見つけていくということを発見しました。
そういえば、海外の人が日本の茶筒の蓋がぴったりと収まることに感激した話を聞いて、日常扱うのものの品質が良くて当たり前で見慣れてしまっていましたが、そこに繊細な心配りと技術あることに気が付かされました。
児童文学でも、古典とよばれる半世紀以上も語り継がれる物語がありますが、長く残ってきたものには、洗練されたところがきっとあるのだろうと思います。いろんな本を読んで、もっと読書に対する繊細さを身に付けて気が付いていきたいところです。
最後はざっくりした感想で恐れ入ります。この記事を書いているうちに無性に目の前にある本を読みたくなってきてしまいました。ではでは次回もどうぞよろしくお願いします。
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