こんにちは!今月に南と華堂さんで催したおでん文庫選書の本、友人がさっそく読んで(再読とのこと)感想を送ってくれました。ありがとうございます!南と華堂で知り合った方とも再会をして、やさしさい言葉をかけていただいて、まだまだ頑張ろうと思いました。
さてさて本日は雑記です。他愛ない胸の内の話です。
ここ最近はずっと読書の仕方をどうしていくか考えていました。少し前にちょっとだけ触れた『ドリトル先生の世界』の本を読んで以来、これまでの本を読む、そして本の感想を言葉にするという、いくらか感受性に頼ったものの見方から、もうすこし学びを増やしてみたいという気が起きています。
児童文学の勉強をちょっとだけしているのですが、特別に文学の世界(というより学が付くような世界)の知識があるわけでもなく、児童文学を読んでいい影響を受けたことが、人にいいものを薦めたいという行動に繋がり、この児童文学のいい影響が何なのかを考える、それを本と”向き合う”という言葉に置き換えてずっと意識していました。
本と向き合う、それは本から受け取った正体不明のボールを、どんなかたちをしているのかを目を瞑った真っ暗闇の状態から探るようなイメージに近いです。
読書中に気持ちが上がる瞬間が確かにあるのに、自分の場合はそれが序章を数行読んだときだったり、物語の筋とは関係ないところで混みあがってくる場合もあり、頭の回路がどうかしている可能性も十分にあることも理解しつつ、思考よりも感情が先に反応するのが写真や絵という言葉を介さない対象にならそこまで躓かずに受け止められますが、本は言葉で情報が整理されているともいえそうなのに、辞書に載っている言葉の意味に留まらず、含みが持たされています。
含みとざっくり書いたのは、それは時代や流行などの大きいところから、十人十色な個人も対象としたら、含みの内容はいくらでも挙げられそうだからです。情報整理や伝達のために使われている言葉、明瞭あってほしい便利なツール、言葉を介して感想は伝えられるし、考えごとはまとまるし、誰かと共通認識を持てる、しかしそうした記号のような役割の域を超えて文学として確立されて今日でも多くの物語が紡がれていることが、今更ですが、すごい面白いことだ…。
しかし、こんな風に自分の丈で絞り出して考えていたのが、するりと知の援助が現れて更なる面白さに気付く機会があります。『フランス詩 道しるべ』という本の中で、詩の成り立ちの説明がなされているのですが、言葉は伝達の手段として発達したと思っていた考えから解像度を上げてくれるようなお話でした。
学をきちんと理解するのはとてつもなく難しいのですが、本と向き合うのに知っておいていいことがゴロゴロとあるのがまるで、豪華なごちそうが目の前に並んでいるようです。
ある意味でこれまでのブログの記事は自発的に考え続けてきた読書感想文で、考えるのが10割だとしたら、最近は知るを5割以上やってみたい、なんて思うようになっています(知ったことをこのブログで書きたいのではなくて、文学の面白さをもっと知りたいというただの欲求です。書くことは変わらず読書感想文になると思います)。
たくさん本を読んだわけでもなんでもないただの人で、この活動も好きの延長になるのですが、もう少し学を深めていきたいです。深まりたい秋。
ではでは次回もどうぞよろしくお願いします。
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