おでん文庫の本棚

大人もこどももみんなで味わう児童文学をご紹介

【雑記】自然と生活が近かったころ

 こんにちは!暑い日が続きますね。身体大事にやっていきましょうね。命のためにエアコンの稼働が必須な日々、朝に窓を開けて過ごしている時間が体調的にはしんどいですが、なんだか気持ちはいいもんです

 

 さて前回から引き続き、アメリカ・インディアン その文化と歴史』というインディアンに関する本を読んでいますが、まだまだ読み終える気配がありません。インディアンの起源、性格、社会構造に続いて、今は白人との関係についてを読んでいます。このあとにはアメリカの独立革命に至るまでの歴史が控えており、まだまだ大事なのはこれからだ…。

 

 前回の記事で日本とインディアンには共通があるようだと書きましたが、そのことについて考えていくと、人は自然が身近にあると精神世界に近づいて、人工物に囲まれているとものを計るようになると思えてきました。

 

 自然現象とは起こるべくして起こり、人の手ではどうにもできないという諦観が前提にあると、何かが起こったときに受け入れるという構えがあり、それがある意味では、人を謙虚にしているかもしれません。宇宙や太陽、山や大地、自分一人の規模で考えたらそれらは全く自分には動じない存在ですよね。それがむしろよかったりするんじゃないかと思うのです。次の日の仕事が不安で迎えた朝のまぶしい日差しに元気づけられたり、川の流れが自分の中でにがにがと存在する悲しい気持ちを流してくれたりすることがあります。それに、人も何もしていなくて、自然も何もしていないと一見思うことがあっても、人は息をしてるし、自然は酸素を生み出していて、人が土に帰ったら大地が肥える、そういう人と自然との繋がりが見えてくることで、ここで生きているんだと実感することもあるし、今あるもので事足りていると思う瞬間は、なんとも満たされる気持ちになることがあります。

 

 しかし、日常の暮らしではなにかと見直そうとする意識がよく働きます。生活も仕事も勉強も何かと今より良くしたいという意識が、今の自分を不安にさせて、より良い方向へと自分で自分を追い立ててしまうことがあります。この意識が悪いことだというのではないのですが、例えば冷蔵庫を買い替えたいと思ったときに、自分はインターネットで価格や性能などを見比べて、より良いものを選ぼうと必死になりますが、選ぶということは必然的に振り落とされる製品が現れるということで、それらを自分基準でダメと認定してしまうわけです。そういうふうに、人工物は見る目を持つようになる都合で、ものを計っていく頭ができていきます。

 

 今を生きている自分がもののある暮らしを否定できるわけもなく、ただ、歴史を追っていくと、古き良き時代と言われたものが自分の暮らしからどんどん遠ざかっていくのを切なく思う気持ちになることがあり、これがインディアンの歴史を読んでいても、同じように切なく感じるのでした。

 

 ということで、この先もインディアンの本の話になるのか、児童文学を挟むか、考えちゃいますね。これまでは1つの題材を長く扱うことがなかったのですが、読むほど話題が出てくるかもしれず、行き当たりばったりです。今回もお付き合いくださりありがとうございます。次回もどうぞよろしくお願いします。

 

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【雑記】インディアンから宮沢賢治?

 こんにちは!いつもブログの本文を書き終えたあとにここの前置きを書いているのですが、今回も投稿内容が児童文学から離れてニッチな記事になっていますよね。分かっているのですが、つい、知るのが面白くて…。度々こうしたことがあるかもしれませんが、生ぬるい気持ちでお付き合いいただけたら感謝感激です…。

 

 さて、今回の記事を書くために、ここ最近の読書記録を確認しようとブログを遡ってみると、アメリカ文学への寄り道と称して関連本を読み始めたのが、体感では3、4月頃だと思っていたのが実際は僅か2か月前のことで、期間で書くとなんと短く感じるのでしょう…。

 

【雑記】福音館古典童話シリーズのアメリカをかじる

https://an-tyk-book.hateblo.jp/?page=1747927045

 

 福音館古典童話でアメリカの児童文学を読んだらそっち方面が気になってしまい今日に至りますが、そもそもは正規のルートがありましで、日本の児童文学をけん引した石井 桃子さんや松居 直さん、瀬田 貞二さんたちが勢ぞろいした著作『子どもと文学 増補新版』の本に紹介されている児童文学作家を順繰りに追っていたはずでした。本に登場する作家の順番通りにいくなら、小川未明浜田広介坪田譲治に続いて宮沢賢治の本を読むつもりだったのが、気が付いたら階段から足を踏み外していたと言いますか、うっかり横道に逸れていました。

 

 ただ、面白いことに、アメリカ文学の関連本を読んでいるうちに宮沢 賢治に戻る道が現れてきたのです。

 

 まず、アメリカ文学に入るきっかけとなったのがアメリカの作家が書いた児童文学、そしてアメリカ文学の父と呼ばれるアーヴィング、南北戦争の引き金となったといわれるストウ夫人の作品でした。そうして読んだ本の中で、更なる関心を運んだのがインディアンの存在でした。鉄は熱いうちにということで、インディアン関連の本を読んでみることにしました。

 

 ■アメリカ文学に関連する最近の読了本

 ・トム・ソーヤーの冒険 マーク・トウェイン

 ・あしながおじさん ジーン・ウェブスター

 ・『トムじいやの小屋(上・下)』 ストウ夫人

 ・『スケッチ・ブック(上)』 アーヴィング

 ・モヒカン族の最後』 ジェイムズ・フェニモア・クーパー

 ・『ともいきの思想 自然と生きるアメリカ先住民の「聖なる言葉」』 阿部 珠理

 

 ■読書中の本(読み終えられるのか…)

 ・アメリカ・インディアン その文化と歴史』  W・E.ウォシュバーン

 ・アメリカ・インディアンの口承詩 魔法としての言葉』 金関 寿夫

 ・『亀の島』  ゲーリー・スナイダー

 ・アメリカ現代詩ノート』 金関 寿夫

 

 読書中の本について、選書の際には予期していなかったことがあり、偶然にも手にとった本の著者に共通点がありました。それは、著者が日本に縁やゆかりがあるということです。日本人著者は言うまでもないですが、外国人の著者に関してはまさかの、日本に滞在経験のある方々で、日本人の精神に触れ、そしてそのリアルな体験をインディアン研究する際の比較対象とし、なんと日本とインディアンの共通点を見出しているのです。

 

 著者のひとりがそう言っているのではなく、自分が読んだ範囲だけでも日本を知っている4人が共通して言うのだから、説得力があります。遠い祖先を辿ったときに、日本人もインディアンも祖先がアジアに行き着くのだそうです。

 

 ちょっと補足になりますが、読んでいるのが古い本であることが前提で、アジアの祖先といっても、その中でも血統が分かれているそうで、細かくみると、日本とインディアンは別だそうで、広義ではどちらもモンゴロイドに含まれるようです。ネット情報では両者に同じDNAが見られたという記事をちらっとみかけたので、両者の差分を知るにはDNAの知識をつけて調べる必要がありそうです。また、本でも下記リンク先のナショナルジオグラフィックでも、インディアン(アメリカ原住民)の祖先がヨーロッパであるという説も挙げられていて、下記の記事では祖先はアジア人でほぼ確定のようですが、今もなお研究途上のようです。

米先住民の起源はアジア、DNA分析 | ナショナル ジオグラフィック日本版サイト

 

 話を戻して、そうした日本への関心が深く、インディアンの詩を熱心に研究する詩人でアメリカ人のゲーリー・スナイダーが、日本で仏教修行をし学ぶうちに、宮沢賢治の作品と出会い、傾倒していくのだそうです。

 

 そこでですね、宮沢賢治の作品の根底にある仏教の世界観とインディアンの世界観がゲーリー・スナイダーを介して結びつくことに、自分はぞわぞわっと武者震いのようなものが走りました。

 

 日本から遠くアメリカへ寄り道をしていたのが、正規ルートに戻るきっかけを掴むことになるとは、分からないものです。宮沢賢治を読むためにも、今読んでいるインディアンの世界観と仏教の思想を足掛かりにしていきたいと思いました。

 

 ではでは次回もどうぞよろしくお願いします。

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【雑記】思い続けるということ

 こんにちは!連日暑い日が続きますね。涼しいものを何か、と考えているうちにカワウソの子どものお出かけ風景が思い浮かび、思いつくままに絵を描いていたら、面白くなってきて、うっかり楽しいお絵描き時間になりました。今日は記事の最後におまけに画像を載せておきます。今日はカワウソの子どもがどんな一日を過ごしたのかを考えながら寝ようと思います。

 

 さてさて、前回の記事で読むと話していた本を読み終えました。

 

『トムじいやの小屋(下)』

 ストウ夫人 作 杉木 喬 訳

【雑記】アメリカ児童文学へ寄り道は続く - おでん文庫の本棚

 

 うっかりネタバレをみてしまい、迎える結末を覚悟しながら読みましたが、終わりまで読んでみると、きっとくるであろうと想像していた悲しみの感情よりも、それまでに出会った人々の優しさをいくつも思い出して、泣きたくなるような気持ちになりました。

 

 この本が引き金になったともいわれているアメリカの南北戦争、黒人奴隷の解放運動ですが、この本がそれだけ多くの人の心を動かしたという事実が、読み終えてみるととてもよくわかります。駆り立てられます。良心に従った行動をとる人になりたい、って思います。

 

 そういう風に、心をすっくと立たせてくれる本と出会うことで、食べものから栄養を摂取しているのと同じように、身体が脈を打ってあたたかくなっていくことがあると思いませんか。そんなときは、なにをかやりたい衝動がみなぎってきて、身体の中にあるエネルギーが外に出たがっているような、そんな自分にびっくりすることがあります。

 

 ただ、このエネルギーですが、うっかりすると、家事であったり、仕事に打ち込んでいるうちに消耗して、うっかり失ってしまうことも多々あります。

 

 あの時は確かに思いがあったのに、不思議ですよね。時の流れが忘れさせるのでしょうか。一週間がいつもあっという間に立っているように感じるのに、一週間前の出来事は遠く感じ、そのときの気持ちは思い出として過去のことになってしまっているような気がします。そう思うと、毎日、頭も身体も、よく活動してよく休み、疲れては、また元気になって活動する。日々が同じことの繰り返しで単調な暮らしと思いがちでしたが、自分は毎日一新しているという考え方の方がしっくりきます。

 

 それに、最近聴いているサカナクションの「怪獣」という歌でもハッとしたことがありました。何かに感動をしたはずなのに、その気持ちが気がつけば忘れさられてしまっている…確かにそうだと思いました。自分はどうしたらこの遠ざかっていく感動を留められるんだろうと考えたときに、今回読んだ本に登場する少女の様子を見ていて、ひとつ閃くことがありました。それは、じっと黙ってよく考えることです。

 

 少女が黒人奴隷と出会ったときからある行動に行きつくまでの期間、それまでにもさまざまな出来事が起こるのですが、そうした中で、すこしずつ、少女の中にかたまってきた決意が、とうとう表に出るという大事な瞬間に至るまで、ずっと胸の内に秘めている様子が、言葉はなくとも様子で伝わってきました。

 

 この心に引っかかっているものについて、自分の場合はそもそもが少女と違っていて、声に出す理由としては、人に知ってもらいたい、分かってもらいたい、ひとりで抱えるのがつらい、といった事情があって、声に出すか出すまいかで悩むことはありましたが、少女のように何をすべきかであったり、何ができるかを自分に問いただすようなことをしていたかというと、できていないですね…。心に引っかかるもの。それが例えばもやもやすることなら、もやもやのまま自分の中をずっと漂って出ていかないし、感動については、共有できる場所で発散して、そのあとに続くものって何があっただろう、と考えてしまう始末です。そう振り返ってみると、書いたり、話すことというのは、終わらせる行為のような気がしてきました。

 

 それならと、自分の中で無意味に漂っているもやもやを、感動したことについて置き換えて、日々、頭の片隅に漂わせていたらどうなるんだろうと、最近は考えています。感動から、物語の少女のように、確固たる何かが自分の中で育っていったらいいのになと思います。

 

 ちなみに最近感動したのは、インディアンの口承詩に触れたときです。前回読み始めたと紹介した本とは別にいくつかインディアン関係の本を借りていて並行して読んでいるのですが、それぞれの本の話が響き合って、視界が少し開けて、その世界をのぞき込めるのが、ますます面白いです。その気持ちで、しばらく浸っていたいです。

 

 ではでは、次回もどうぞよろしくお願いします。

 

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【雑記】アメリカ関連のこれから読む本たち

 こんにちは!みなさんは、連載小説や漫画の最終巻、発売されたら早々に読むでしょうか。自分は早々に読んでしまうことがほとんどなのですが、『ちどり亭にようこそ〜京都の小さなお弁当屋さん〜』という京都のお弁当屋さんが舞台となっている小説がありまして、最終巻はどうにも終わるのが惜しくて読めていないまま、多分4、5年以上は過ぎてしまいました。終わりに向かっていくのを躊躇うことってあるのですね。

 

 さてさて前回、インディアン(ネイティブ・アメリカン)に関する記事を書いたときの熱を保ちながら、下記の本を読み始めました。

 

 『トムじいやの小屋(下)』

 ストウ夫人 作 杉木 喬 訳

【雑記】アメリカ児童文学へ寄り道は続く - おでん文庫の本棚

 

 『ともいきの思想 自然と生きるアメリカ先住民の「聖なる言葉」』

 阿部 珠理 著

『ともいきの思想』阿部珠理 | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)

 

 アメリカ・インディアンの口承詩 魔法としての言葉』

 金関 寿夫 著

www.heibonsha.co.jp

 

 アメリカの児童文学の道のりを追うために参考にした、瀬田 貞二 猪熊 葉子 神宮 輝夫 著英米児童文学史で紹介されていたのが『トムじいやの小屋(上・下)』でした。アメリカの南北戦争が起こる引き金となったと言われる作品で、下巻では、黒人奴隷が自由を手にするために白人から逃亡をする話の顛末、それと同時に、物語の題名にも登場するトムじいやが売られた先で訪れる運命が描かれているはずです。ことの顛末をうっかり、ちらっとネタバレしてしまい、読むのが若干恐ろしいのですが、なんとか見届けようと思います。

 

 そして、続いての2冊は、アメリカの児童文学の道のりからは若干寄り道になります。福音館古典童話シリーズにあるモヒカン族の最後』という、北米を舞台にしたモヒカン族最後のインディアンが登場する物語を読んだことをきっかけに、インディアンについてもう少し詳しくなってみようと思い選んだ本です。上記ラインアップの2冊目については公式のサイトが見つからず、著書に関する記事のリンクを貼っています。この2冊目の本は、なんと日本人とインディアンに共通点があるらしいことを軸に書いているらしく、今本を読んだ範囲でも、なるほどといいますか、現代ではあまり耳から聞かないかもしれない、腹を据える、生き様、なんて日本語が思い浮かびました。また、リンクの記事でもあるように、共同体の中で暮らすという共通点で考えたら、理解できることや気付きがありそうですよね。著者が20年に及ぶ現地でのフィールドワークを経て書いた本とのことで、20年という期間の重みにすでに圧倒されています。

 

 ↓『モヒカン族の最後』については下記記事をご参照ください。

【雑記】インディアンを描いた物語 - おでん文庫の本棚

 

 アメリカの歴史に関する本も読まねば…と思いつつ、ただ、時系列を追っていくような読み方よりもスポットがある方が入りやすいかと思い、コロンブスに関する本も一応借りてきました。どのくらい読めるのかちょっとドキドキです。

 

 それでは次回もどうぞよろしくお願いします。

 

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【雑記】インディアンを描いた物語

 こんにちは!本日は、最近読み終えたばかりの本にまだ興奮しているので、気持ちのままに書いていこうと思います。

 

 しばらく読むのにかかると思っていた福音館古典童話シリーズの『モヒカン族の最後』を読み終えました。

 

 モヒカン族の最後』

 J・F・クーパー 作 足立 康 訳 N・C・ワイエス 画 

https://www.fukuinkan.co.jp/book?id=567

 

 胸アツでした。北米を舞台に、原住民であるインディアンを巻き込んだ、フランスとイギリス間での争いを描いた物語です。インディアンにもいくつもの部族があるのですが、それがフランス側につくかイギリス側につくかで分けられ、インディアンの間でも敵対関係が生まれます。ひとつの部族が分断されることもあったそうで、それまでひとつだったものが無理矢理に分けられ対立関係になるなんて、ありえないと口にすることは簡単ですが、実際にあるのだから、聞き流せません…。

 

 さらに当時の様子を知るために、映画「わが魂を聖地に埋めよ」という、インディアンが入植者たちから土地を追われていく様子が描かれた映画をみまして、揺さぶられました。

 

 インディアンには土地を所有することを意味する言葉が無いそうで、命は全て神聖なもの、そして大地には畏敬の念を持ち、所有するというような考え方は拒絶していたそうです(すみません、英語の本をweb翻訳して解釈しているので正確さに欠ける部分があるかもしれません。ただ、土地を所有する意味の言葉が無いことは映画でも言及されていました)。劇中ではそんな彼らの尊厳を傷つけるような展開が続き、現実の理不尽さに成すすべもなく、それでも民族としての誇りを完全には捨てなかった彼らの姿は、目に焼き付きました。

 

 ちょっと話がそれてしまいましたが、今回紹介する本の何がいいかと聞かれたら、登場人物の魅力と、手に汗握る展開、です。ありきたりな言葉ですみません。性別も人種も年齢も違う立場の人たちが、絆で繋がり、困難を乗り越えていく姿や、ひとりひとりが戦ってるときにみせる強い意志に、心を揺さぶってくるものがあります。

 

 アンカスというモヒカン族最後(正確にいうと2人いて、親子の子の方です)の生き残りの子が、言葉少なく、観察眼に鋭く、そしてインディアンのそれまでの価値観とはまた違う現代的な面も持ち合わせ、誠実で優しく勇ましくて、できすぎた子なんです。最後まで活躍が見逃せませんでした。窮地に追い込まれても、冷静沈着で、颯爽としていてかっこいいです。それでいて、父親の存在が近くであることで、子どもという立場をふと見せてくることもあります。できすぎです。

 

 そしてホークアイという人物、白人でありながらインディアンと行動を共にし、無神論者と自分では口にしていても、インディアンの文化とも違う、こっち寄りの人情を持つガンマンが、これまた魅力的です(さらにいうと、ホークアイとデイヴィッドの絡みも好きです)。なんとホークアイは別作品でも登場するようで、早速読んでみたかったのですが、邦訳された本はどうやら無いようです。原作は『モヒカン族の最後』を含めた5部作となっているらしく、なんとか読んでみたい。ただ、訳者のおことわりがあるように、福音館古典童話シリーズは、文中に出てくる意味が分かりづらい言葉を、訳注ではなく文中に説明を加えることで読むことが中断されないように配慮したり、出版当時の流行で文章の飾りや回りくどい表現を工夫するといった気遣いがなされているので、読めたという経緯があり、原文を読むことはなかなかの根気を試されるのだろうと予想できます。そもそも、『モヒカン族の最後』は最初大人向けの翻訳本で読もうとしたのですが、全然、読み進められませんでした…。物語が前に進まなかったです。序章のインディアンが暮らす土地の説明が呑み込めないのはまあまあ仕方ないと思いましたが、やっと登場人物が出てきたところでさあと期待しましたが、それでも言葉が頭に入ってこず、泣き寝入りしました。もっと文学と言葉を勉強してから出直します。

 

 もうしばらく、インディアンの世界観やアメリカの歴史を調べてみようかなと思います。それでは次回もどうぞよろしくお願いします。

 

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【雑記】アメリカ文学の父と出会う

 こんにちは!こちらで紹介する本とは別に、日本家屋の絵を描きたくて茶室関係の本を読み始めました。茶室の建物は、花器をみせるために光を入れる墨蹟窓というのがわざわざ用意されていたり、床の間を支える柱を左右竹と木で違いを付け変化をつけたりと、本を読むことで細かい配慮に気がつけるのが面白いです。

 

 さて、最近はアメリカ文学にまつわるあれこれを読んでいるのですが、本の中でシェイクスピアが引用されているのを何度か見かけて、シェイクスピアを読んでみたいという気持ちがじわじわ高まっています。昔にちょっと触れたときは読み方が分からずに挫折したので、もう一度チャレンジしたいです

 

 本日は、先日読み終えた本をご紹介です。

 

 『スケッチ・ブック (上)』

 アーヴィング 作 齊藤 昇 訳

 

www.iwanami.co.jp

 

 読むきっかけとなったのは、以前紹介した瀬田 貞二 猪熊 葉子 神宮 輝夫 著英米児童文学史での中で著書について触れられていたことからで、内容は、公式のリンク先で紹介されているように、「アメリカ文学の父」と呼ばれるアーヴィング(1783―1859)が、イギリスへ渡り、そこで見聞きしたことをまとめた本になります。

 

 時代を遡りますね。ローラ・インガルス・ワイルダーの『若草物語』が1868年出版で、アーヴィングの本は更に遡り1819年出版です。アメリカの独立宣言は1776年なので、独立から 『スケッチ・ブック (上)』の出版までに30年程しかたっていないのにも関わらず、アメリカ文学という基盤がこの時点で確立されている(されつつある?まだそこまで掴めておらず…)のを思うと、今の時点では小学校から中学の間の急に背が伸びて大人に近づく急成長の時期と重ねて考えてしまいますが、もう少し後ろの時代背景も知ってみなければ。

 

 この本はアメリカ人がイギリス人を観察してその人となりや風俗について書かれているので、イギリスに興味がある人が読んだら面白いと思います。読後感をざっくりというと、エッセイ本を読んだときの感覚に近いです。

 

 自分が海外にまつわるエッセイ本を読むきっかけとなったのは林望先生のイギリスはおいしいという本で、タイトルがいい具合に皮肉が効いています。イギリスの食は…なのはなんとなく知っていましたが、よく言えばシンプル、日本の和食でしょうゆ・みりん・お酒・砂糖といった複数の調味料を使うことがいかに複雑な風味を出しているのかと、そうした味付けを日常的に食べられることがどれだけ特別な環境であったのかと振り返ったものでした。林望先生を知ってイギリスが好きになり、しかしそうした外から見たイギリスの構図で愛すべきいじり方をしている本というのとあまり出会わなかったので、外から(しかも今回紹介する本はアメリカ人が)イギリス人を描写しているのが興味深かったです。

 

 しかし少し前に書いたように、アメリカが独立してまもなく出版したというのに、著者がアメリカ人とイギリス人との国民性を線引きして描いていたことに驚きました。日本と海外の海を隔てた距離感よりも、アメリカとイギリスは、地図上では海を挟むといえども混ざり合っている様子を想像していたので、アメリカ人とはこうで、イギリス人とはこうだと説明されていたことに、ついていけなかったというか、やっぱり、もっと歴史も知るべきですね。

 

 このあと、『トムじいやの小屋(下)』と『スケッチ・ブック(下)』を読もうと思っていましたが、アメリカの歴史に関する本を挟むかもしれません。しかし、目下読書中のモヒカン族の最後』がまだまだかかりそうなので、全てを読み終えるのは先の話となりそうです。

 

 それでは次回もどうぞよろしくお願いします。

 

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【雑記】『あしながおじさん』近況を交えて

 こんにちは!先週の木曜日の更新から今日まで、たった一週間とは思えないくらいじっくりと過ごした一週間でした。これから暑さも本格的になってくるので、みなさん身体を大事に過ごしていきましょうね。

 

 本日はこちらの本について、自分の近況を交えて書いていこうと思います。

 

 あしながおじさん

  ジーン・ウェブスター 作 坪井 郁美 訳

https://www.fukuinkan.co.jp/book?id=156

 

 物語の主人公は孤児院育ちのジェルーシャ(愛称はジュディー)です。国語の成績が飛び抜けてよかったことが、あしながおじさん(ジュディーがつけた愛称です)の目に留まり、大学に通うための資金の援助を受けることになります。これまでの孤児院での単調な日々から一転、夢と希望を持って大学へと進学し、作家になる夢を追いかけながら過ごす大学4年間の生活が始まります。

 

 この本で特徴的なのが、手紙という形式で物語が描かれていることです。あしながおじさんが資金を援助する代わりにジュディーに出した条件が、自分宛てに近況を報告する手紙を書くことでした。そのために、ジュディーがおじさんに宛てた手紙というかたちで、何十通にも渡るメッセージが、ときにはジュディー画伯の素晴らしい挿絵付きで綴られています。

 

 この本を読んだことのある方は、あしながおじさんの正体に途中で勘付いたでしょうか。私は、物語を追っているうちに既視感を感じ、もしかしたら過去に一度読んだことがあるのか(…)、察することができたのですが、正体が分かっていると、こそばゆくなるシーンがいくつもあり、初見よりも余計にくすぐったい気持ちを体験しました。しかし、大学に入ったばかりの頃の文面は無邪気でおてんばな印象だったジュディーが、在学中に20歳を過ぎ、最後の手紙では大人っぽくなって…。

 

 ここから、ちょっと自分の体調のお話をするので、あまり耳に入れたくない方は、飛ばしていただけたらと思います。この本を読み終えたあと(前回の記事で)自分の体調不良の話を最後にちらっと書きましたが、そのとき、心のよりどころについて考えていました。自分事ですが、ここ数年の身体の悩みというのが肌荒れのことで、自分の中ではまあまあ深刻な悩みです。先日は、肌の腫れによって、初めてまぶたが機能しなくなるという体験をしました。片目だけだったのが幸いでしたが、目ヤニがずっと溜まり、目に入ったゴミか何かががずっと取れずにごろごろしたり、それが原因なのか視界もぼやけて困りました。視力が通常で1.5以上あるので、ぼやけた視界に余計不安も搔き立てられたものでした。これに加えて、いつものことになりますが、顔が赤くはれることで、終日、痒い、痛いで、集中力が全然持たず、夜も寝つけないという有様です。

 

 ひどい状態のときには人と会うことが無い様にできるかぎり気をつけているので、会ったことがある人には姿が想像がつかないかもしれません。ひどいときは、あまり服用しない方が良いけれど効果の強い薬で症状を抑えています。その効果が切れると肌が荒れる、というサイクルが不規則で発生し、おおよそ毎月そんなことを繰り返している状況です。原因ははっきりとしておらず、でも、病院の先生からは複合的な原因があるのだろうと、例えば汗をかいたり、ストレス、アレルギー、そうした原因のちょっとずつが絡み合って症状となって出ている可能性があるのかも、と言われています。

 

 この話がどう『あしながおじさん』に繋がるのかというと、ジュディーの生い立ちが孤児という立場であることが、どれだけ不安で孤独なものか、このとき考えていました。

 

 自分の身に起こったこと、感情やなにかも、子どもの頃は少なからず親が見聞きしているものだと思います。そういう自分と他者とで共有できている環境が無い場合、人に話せず、また見栄を張ってしまうことで気づかれず、胸の内にため込んでしまうことがどんどん山積みとなってしまう気がします。ジュディーは、そうした話し相手が、あしながおじさんの登場によって初めて得られることになります。

 

 ちなみに胸の内を出すというのは、なんだか石のような重たいものを外に出すのを自分は想像していました。どうでしょう。簡単に伝えられないことが胸の内にあります。しかし、自分にとって例えばその重たい気持ちを、同じ重みで相手に受け取ってほしいかというと、そんな重いものを人に持たせたくないはずです。いや、本音はちょっと相手に理解してほしい気持ちもあるかも?やっかいですね。そこでジュディーの素晴らしいなと思うところに、悲壮感を漂わすことなく、人生の目標と感謝の気持ちを忘れずに表現するところがあります。

 

 赤毛のアンのアンは、悲しいことに対して想像力を働かせて自分を癒していたように思うのですが、ジュディーはネガティブなものからくる行動というよりも、ひとりで生きていくことを孤児院にいるころから意識し、自分の得意で仕事をしようと考えているので、ある意味で自立した面をみることができます。しかし一見明るくたくましくみえても、他人に孤児であることをそうそう打ち明けられない様子をみると、やっぱり考えていることはあるわけです。それでも、できることを一生懸命明るく取り組む姿、そして迎えた最後には、ほんとうに幸せな気持ちになりました。

 

 自分は、この本を読んだのと体調不良のタイミングもあって、ジュディーがあしながおじさんに救われたこと以上に、ジュディーが自立して人と関わっていた面が強く印象に残りました。あしながおじさんが心のよりどころになっていたことも確かですが、ジュディーがしっかりと自分の意見を持っていて簡単に曲げないところをみると、自分とよく向き合ってきたように思え、あしながおじさんに会わない未来があったととしても、逆境にも負けずにたくましく生きていそうです。

 

 そんなこんなで私も、最近は自分の問題と向き合うことで何か得るものがあるかもしれないという可能性を考えるようになり、今なら悲壮感なしに状況を人に伝えられる気がして、ちょっとこのブログで書くことにしてみました。

 

 今回の体調不良のタイミングでは、自分が立ち上げたサークルの活動や、長年の友人と会う予定があり、いささかの義務感もありましたが、勇気を出して外に出ました。ぎこちなさは出てしまったかもしれませんが、普段と同じように人と交流できたことがありがたかったです。しかし同時に、人の話に耳を傾けるのも、忘れないようにと思いますね…!悩んでいるのは自分だけではないのです。

 

 とにもかくにも、心のよりどころは、自分の場合は外に求めるよりもまずは、自分ですっくと立つ意識でやってみようと思います。それでは、次回もどうぞよろしくお願いします。

 

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