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宮沢賢治と自我のベクトルの話

 こんにちは!最近、身心を整えるためにピラティス的なものを家で実践するようになりました。ポーズを維持する難しさは想像していましたが、意外にも、動きに合わせて深くゆっくりと呼吸をするのに息が続かず、普段が浅い呼吸であることに気が付きました。日常で深い呼吸を取り入れてみたら、ちょっとだけ気持ちが安定したような気がします。呼吸の仕方ひとつも大切なことなんですね。

 

 さてさて、ぼやきのように最近言い続けていますが、宮沢賢治の宗教詩人としての側面を読み解こうと奮闘中です。共感力(気持ち)で理解できそうなことは何とか読めるのですが、定義や理屈を読み解く必要がある内容については、腑に落ちるまで時間がかかっています

 

 例えば宗教の話で、日本に伝わってきた大乗仏教の教えは、自分だけが救われるのではなくて、多くの人が救われるという社会的な思想です。自分の倫理観と照らし合わせると、社会全体が幸せである状況というのが、個人的には人が孤立せず助け合いによって成り立っているように思えて、よいことだと頷けます。しかし、空(くう)という、人は実体はなく現象によって他者と繋がっている(と今のところ捉えています…)、という理論になってくるとなんぞやと。

 

 いきなり自分の実体がない状態と言われても難しいので、逆説的に、実体があるというのは、五感が働き、自我を持っている状態を指し、人の行動には少なからず自分の感覚と意思が伴っていると仮定します。そうなると、人が何か行動を起こす場合、そこには目的があり、ざっくばらんに言えば自身が喜ぶことを考えます。

 

 誰かのためを思って行動するとしても、行動に対して相手からお礼をされたとしたら、自分に得が発生していることになります。相手のためを思ってしていることが利他のようで実は利己、エゴや利益が伴っています。

 

 そこで空の理論は、人の実体は無いと考えることでそうした自我から解放されて利他が発動できる状態であると、現状はそのように捉えています。ただ、それだけでは実体がない状態の人間とは実際にどんなも人物かと想像しようとしてもなかなかうまくいきません。

 

 ちなみにここで書いている自我というのを、みなさんどんな風に想像しますか。私は、自我とは主張、表に出てくる発言であったり行動を連想します。性格とも繋がっていそうですよね。我が強い、なんて言葉を聞いたことがあります。

 

 自我というのはやっかいだなと思うことがよくある方で、目的が自我によって阻まれていると感じると、どうしようと頭を抱えます。例えばブログに関しても、人に役立つ情報を発信するためにトレンドを追いかけて記事を書くのと、人に注目されたい欲が出て今のトレンドの話題を記事にするのとでは聞こえ方が違うように、安直ですが誰かの役に立ちたい気持ちのベクトルが、自我が出てくることによって不安定になります。

 

 だからといって他者のためと自分の行動を戒めると、私の場合は自己犠牲という言葉が頭をよぎります。戒める、我慢する、相手を尊重する…最近世の中で、自分らしく、というワードを聞きますが、それは自分を抑圧してきた反動で出てきた言葉に聞こえます。人知れずに咲いては散った花のような儚さがあります。

 

 と、思っていたのがつい最近のことで、宮沢賢治を知ってみると、この自己犠牲は、抑圧された自分を解放する方向に向かうのではなく、自分の存在が誰かのために役立てる方向へ向かっています。ベクトルが自分へ向くか、他者へ向くかで大きな違いがあります。私は最初、前者の意味で自己犠牲を捉えていましたが、後者の自己犠牲を知ることで、自分らしさ→自我を発揮するのではなくで、自我から解放されて、できたら世のため人のために生きたいものだと思いました。

 

 このことをあまり真剣に考えると、私の場合できないと諦めてしまうので、焦らず、心に刻みながら、進んでいこうと思います。

 

 次回は宮沢賢治に関連して読んだかこさとしの化学の本を紹介しようか考え中です。土に関する本を読んだ影響でずっと蔑ろにしていた観葉植物の土を入れ替えました。根っこが喜んでいたらいいのですが。無事に成長してくれるかドキドキです。それでは次回もよろしくお願いします。

 

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