
こんにちは!先日横浜でちょっとだけ海風を感じてきたのですが、むわんとした熱気で、海沿いの爽やかな夏のイメージはどこへやらでした。自分が勝手に作り上げたイメージが美しすぎて笑っちゃいました。
さてさて、ここ最近はインディアンや仏教の話でしたが、久しぶりに児童文学の話で、前回の記事で話していた、マーク・トウェイン 著『ハックルベリー・フィンの冒険(上)・(下)』を読み終えました。
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https://www.fukuinkan.co.jp/book?id=664
https://www.fukuinkan.co.jp/book?id=665
この本には、冒険という言葉が入っています。みなさんは冒険をしたことがありますか。私はちっちゃい冒険なのですが、人が寄らなそうな草むらをかき分けて、植物や昆虫に出くわしたのがじんわり今でも楽しかった気持ちがよみがえります。
クローバーやレンゲが広がった場所を見たときには秘密の場所にちょっと足を踏み入れたようでした。前人未踏の場所へ足を踏み入れることであったり、新しいことへのチャレンジであったり、冒険という言葉の使われ方も人それぞれあると思います。
しかし大人になってくると、この冒険という言葉がどうも子ども向けのイベントの広告で使われている方で聞き慣れてしまって、今回のような冒険という名の付く本を読むのにはいくらかの緊張がありました。子どもにとってのドキドキワクワクの冒険に、大人になった自分が読んで面白いのだろうかと。まずその緊張感を持って読んだのは『トム・ソーヤーの冒険』でしたが、そんな心配は必要なかったことを痛感し、子ども向けという括り方でいささか思い違いしていた自分に反省しました。時代を越えても読み継がれている児童文学はそうじゃないんです。
冒険というのが、大人が子どもをわくわくどきどきさせるために作ったテーマパークのようなものという考え方が心のどこかにあり、そういう作られたものの中で、安全に楽しく、いい思い出で終わることを期待しながら、冷めてもいました。
話は少し飛びますが、人が死ぬことが子どもの本の中で描かれる必要があるのかどうかについて、少し考えたことがありました。なんで自分がこのことに引っかかったのかも最初は理解できず、最初はその役割(主題として命を扱うのでない場合の命の扱い方)に納得がいっていなかったのかと考えていたのですが、今は、先に話したように頭のどこかで夢の世界のテーマパーク像があったことが関係しているように思います。現実を直面するのは大人の世界の役割で、子どもが読む本の世界には、もっとマイルドな優しい世界でいいのではと思いました。
それがマーク・トウェインの本を読むと、考え方が変わってきます。大人が読んでも面白い本であることは確かです。そこには、綺麗に作り上げられた世界があるのではなくて、ほの暗い現実があります。大人のみなさんなら憂鬱な世の中をいくらか簡単に想像できると思います。そんな中で、きらりと光るのが子どもたちの世界です。子どもたちが大人の手を借りず、自分たちで考えて、この世界に存在している、そんな子どもたちがすごいな、と思えてくるのですよね。
この物語では、言い方がよく聞こえないかもしれませんが、そんなに冴えない、格好のつかない大人がそれなりに出てきますし、模範となる大人ばっかりではないけれども、世の中って完璧でスマートでできた大人ばっかりではなくて、いろんな人たちがいるはずです。そんな大人たちに、一作目では自由人で浮世離れしていた印象だったハックルベリー・フィンが、大人の世界と絡み、もみくちゃにされながらも世の中をちゃくちゃくと知り、それでも心を折らずに、自分らしく、しなやかに存在しているのが、もう希望ですね。大人の型にはまらずに子どもは子どもの世界を作りのびのびと、そしてちゃんと世界に根を下ろしていくからきっと大丈夫です。
子どもに冒険を、そして大人は冒険の意味を取り戻すために、マーク・トウェインの『トム・ソーヤーの冒険』、『ハックルベリー・フィンの冒険(上)・(下)』をぜひお手に取ってみてください。
それでは次回もどうぞよろしくお願いします。
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